三鹿の渡し(大門・北野町)

今からおよそ六百年あまりも、むかしのことです。

ある時、東の方から足利尊氏の軍勢が、京の都へのぼろうとして、大門の里までやって来ました。

ところが、いく日もふり続いた雨のために、矢作川の水が大水になってしまい、どうしてもわたることができません。

早く京へのぼれ、という天皇のご命令ですが、川の水かさがへるのを待つしか、しかたがありません。

そこで、こまってしまった尊氏は、大門の八剣(やつるぎ)神社に、
「どうか神さま、この尊氏をぶじにわたらせたまえ。」
と、熱心においのりをしました。

すると、こんもりしげった八剣神社の森のおくから、三頭の白い鹿があらわれました。

「これは、ふしぎなことよ。」
尊氏は、そっと近よりました。

しかし、三頭の鹿は、にげようともしません。

それどころか、
「どうぞ、こちらへ。ごあんないいたしましょう。」
というように、矢作川の岸の方へどんどん歩いて行きます。

「さては、神のお助け。」
喜んだ尊氏は、三頭の鹿のあとを追って矢作川の水べに近よりました。

鹿は、川のあさせをえらんで、すいすいとわたって行きます。

「ありがたい。神のおみちびきじゃ。みなのもの、鹿のあとに続け。」
こうして、尊氏の軍勢は、やっとのことで矢作川をわたって、めざす京の都へのぼることができました。
 
このことがあってから、二百年ほど後ことです。

徳川家康が、まだ若い十九さいのころのことでした。

尾張の桶狭間で、織田勢と今川勢とのはげしい戦いがあったとき、家康は、今川義元に味方して大高城にいました。

ところが、義元が織田信長にうたれてしまいました。

そこで、家康は、勢いにのった信長の家来たちに追われて、矢作の里まで命からがらにげて来ました。

家康をかくまってくれる大樹寺がもうすぐだというのに、矢作川は大水が岸まであふれていて、とうていわたれそうにありません。
三鹿の渡し
後ろをふり向くと、てきが大勢せまって来ます。

なんとかして早く川をわたらないと、信長の家来につかまってしまいます。

絶体絶命におちいった家康は、川のていぼうの大きな松の木の下で、川向こうの大門の八剣神社に向かい、目をとじて一心にいのりました。

「どうか神さま、この家康にぶじに川をわたらせたまえ。」

すると、ていぼうの大きな松の木のかげから、三頭の白い鹿があらわれました。

そして、家康の前に近づいて来て、
「どうぞ、このせなかにお乗りください。川をわたしてあげましょう。」
といっているように、鹿は、せをひくくしました。

家康は、
「ありがたい。神のお助け。」
と、いちばん大きな白い鹿のせなかにまたがりました。
三鹿の渡し

家康を乗せた白い鹿は、一頭を先にたたせ、もう一頭をしたがえて、うずまく矢作川をぶじに泳ぎきりました。

そして、家康は、九死に一生をえて、やっとのことで大樹寺ににげこんで、あやうく難をのがれることができました。 
 
このあたりが、「三鹿(みしか)の渡し」とよばれるようになったのは、それから後のことですが、名づけたのは家康だということです。

三頭の白い鹿が出て来たという松の木も、「鹿が松」とよばれて、今でも矢作川の西のていぼう(北野町)に、三代めの松が植えられ、むかしのあとをとどめています。

また、大門には、矢作川が大水のために川がわたれなくて、しばらくの間住んでいた館があったと伝えられています。

今でも、八剣神社の境内に、「足利尊氏石宝塔」が立っています。